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柳宗悦 美は人間を救いうるのか (上)
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鈴木大拙の弟子という宗教哲学者としての背景を持ち、白樺運動に参加し、さらに当時は下手などと呼ばれた雑器などからさ「民藝」を見出し、拡げていった柳宗悦。その柳は若き日から、のちの日本的霊性にもつながり、あるいはイスラム神秘主義にもつながる、遠大で高邁な宗教哲学を有していた。
その宗教哲学と「民藝」を、柳の「ことば」を熟読玩味しながら、若松英輔氏が丁寧にひもとくガイドブック。
民衆における美――民藝をどう見つけ、そしていまは弱くとも尊き民衆にどのようなまなざしを、柳宗悦が生涯にわたって注ぎ続けたのかを、その宗教哲学と照らし合わせながら、読者とともに考える。
【はじめに】
柳宗悦は、近代日本を代表する思想家のひとりです。これから一年を費やして、彼の生涯と境涯を見つめ直してみたいと思っているのですが、今なぜ、柳なのかという問題をまず、考えてみたいと思います。
歴史的な人物である、というだけでは、今、改めて彼の言葉と行動の意味を味わう動機にはなりません。柳のような普遍にむかって仕事をした人は、いつ読み直しても何かがある、ともいえるからです。しかし今日は、まさに柳が対峙し、深めた問題に私たちもまた、向き合い直さねばならないところに来ているように思われてならないのです。
柳の生涯を読み解く扉になるいくつかの言葉があります。一つは「宗教」、「平和」、そして「美」です。
真の意味における「宗教」とは何か。その真実の役割は何なのか。この問題を私たちは避けて通ることができない場所に立っています。
「平和」とは何か、いかにして平和は実現し得るのか。この問題の切迫性は改めていうまでもありません。
柳にとって「美」は、人を大いなるものへと導く道であり、翼のような存在でした。
真善美という言葉があるように、ある人は、美ではなく、真、あるいは善こそがそのはたらきを担うというかもしれません。
なぜ、美であると柳は考えるに至ったのか。それは美こそもっとも広く、また等しくその救いの業を人々にもたらし得るからです。
美と救済に何の関係があるのか、という人がいても何の不思議もありません。しかし、「雑器の美」という柳の代表作にある言葉を読むとき、そこに現代人の感覚では捉えられない確かな可能性を見出すかもしれません。次の一節にある「神の子」とは人が、人間の本性は神の子であることを示しています。
神の子たるを味わう時、信の焔は燃えるであろう。同じように自然の子となる時、美に彼は彩られるであろう。詮ずるに自然に保障せられての美しさである。母のその懐に帰れば帰るほど、美はいよいよ温められる。私はこの教えのよき場合を雑器の中に見出さないわけにゆかぬ。
私たちは人の子であると同時に神の子でもある。その事実を深く経験したとき、信仰の焔が燃えたつ。それに似て、人は自らが自然の子であることを自覚したとき、まことの美とは何かを知る。それは自らの内心の彩り、すなわち「たましい」の姿を認識することにほかならない、というのです。
ここで「雑器」と記されているものを柳はのちに「民藝」と呼ぶようになります。「民衆的工藝」の略語です。民衆が民衆の日常生活を支えるために作った日用品のことです。飾るためにではなく、日々、用いられるために作られた「民藝」にこそ、真の美が宿っている。それは人々に発見されるのを待っている、と柳は考えたのです。(後略)
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